私はウォルト・ディズニーの日本支社でシニアプロデューサーをしていました。その私が企画した一つのプロジェクトが『川越ディズニーランド』です。
えっ、そんなのあったの?と思われるかもしれませんが、私にとって初めて「企画」をしたプロジェクトで、企画者としての原点であり、名誉ある失敗企画でした。
実は、この話は何十年も前の話です。なんせ、ディズニーに勤めるずっと前、私自身が17歳の高校生だったときの話なのですから。
時はさかのぼり私が高校2年生の時、文化祭の日にふと気がついたことがありました。
「うちの文化祭って、親ぐらいしか来てないのでは・・」
私が行っていた高校は埼玉県川越市にある男子校で、駅から歩いたら90分、バスに乗っても30分ほどかかる距離にあり、特別な興味がない限り立ち寄ってくれるような場所ではありません。しかも、駅から徒歩10分程度にある人気の男子校が毎年同じ日程で文化祭を開催するので、私の高校に来てくれる環境など整っていなかったのです。
さらに、私の高校はいわゆる進学校であったために、体育祭や文化祭がスケジュールには組み込まれているものの、そこまで熱心に取り組んでいるという状況ではありませんでした。
場所、日程、物。全てが残念な状況の文化祭。
でも、折角の高校生活なので、通学の遠さ以外の思いでも残したい…。
そこで、私の中で一つの思いが生まれたのです。
「文化祭が楽しくない、それはまるで教室掃除と同じように作業としてこなしているからだ。自分たち生徒がこういう文化祭をしたいという意思をもっていなければ、つまらないではないか。催している自分たちも楽しまなくちゃ。そして、何より来ているお客様に楽しんでもらおう。もっと人を集めたい。人が集まるようなことをして、高校の思い出を残そう。」
場所、日程、物がなくても、同じ思いをもっていた人はいます。高校3年生になってその思いを後輩達に話をしたところ賛同者が増え、自主委員会を結成し、文化祭の企画を自分たちで考え直すことにしたのです。
最初に悩んだのが「どうやったらうちの文化祭に人が集まるのだろうか」ということ。
それまで企画などしたことがない私でしたので、まずは成功例をマネをしてみようと考えました。安易ですが、人が多く集まっている場所の真似をすれば、同じように人が集まるだろう、という発想だったのです。
そして思いついたのが「文化祭を『川越ディズニーランド』にしてしまう」というものでした。
情報を集めに本屋さんに行き、高校生が立ち寄るには珍しい経営書のコーナーでディズニーランドの経営の本を探しました。そこで「人を集める~なぜ東京ディズニーランドがはやるのか~」(堀貞一郎著)などの本を見つけ、バイブルとして読みふけったものです。
最初は、ディズニーランドというテーマを誘致できれば人が集まると信じて、その意義や集客計画、実際に展示するアトラクションまで書いた分厚い企画書を作りました。学校内に水路があったのでそこに船を浮かべて『ジャングル・クルーズ』にするとか、お神輿のように組んだベニア板の上にテレビと椅子を乗せて人力のフライトシミュレーターで『スター・ツアーズ』を作る、といった無茶すぎるアイデアの数々も入っていたことも今でも覚えています。
そんな無謀なことを考えながらも筋は通そうと、ディズニー社に対して企画書を提出して、正式許可をもらうという行動もしていました。
企画書を郵送してから2週間ほどたったとき、自宅に1通の封書が届きました。なんと、ウォルト・ディズニー社からの返信でした。
驚きながらも封を開けると、中には英文と和訳した手紙が1通づつ入っていました。内容としては、企画は褒めていただきつつも、展示物等を自由には作ってはいけませんよ、ということをやんわりと表現していたものです。この結果を実行委員に話して、川越ディズニーランド計画は断念することにしたわけです。
企画は振り出しに戻りましたが、ディズニーに断られたことによってむしろ良かったことがあります。
企画で考えるべき要素を再度確認して、「ディズニーを使う」のではなく「どの要素が足りないかの比較材料としてディズニーを参考にする」ことにできたからです。
あらためて、文化祭の現状把握をすることにしました。なぜ来ないのか、を真剣に考えるきっかけとなったのです。
そして、当時の東京ディズニーランドの会社組織を参考にして文化祭実行委員会を10のグループに分割して、それぞれの課題の解決策を考え、実行していきました。
最終的な成果として、ディズニーをテーマに使わない企画となっても、前年の5倍の人数が集まったのです。
今でも母校ではひとつのイベントとして根付いて、この時以上に活発な文化祭となっています。